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飫肥出身の偉人・有名人と言えば、明治期の外交官・政治家で、外相時代に日英同盟や日露戦争後のポーツマス条約を締結した小村寿太郎が挙げられます。
観光客誘致の一手段として小村寿太郎推し?飫肥城下町には寿太郎関連施設がいくつかありますので、巡ってみましょう。
先ずは大手門のそばにある小村寿太郎記念館です。飫肥藩の上級家臣だった旧伊東祐正家の敷地内に建設されています。
こちらが小村寿太郎記念館の建物。入館料は大人300円ですが、私は飫肥城下町関連6施設に入場できる共通券800円を利用しました。
パネル展示・資料・ビデオなどで寿太郎の生い立ちから業績までを紹介しています。
寿太郎は当時の成人男性平均と比べてもかなり小柄で、外交交渉ではかなりなめられたようです。
同じ大手門通りには小村寿太郎の生誕地があり碑が建っています。
寿太郎の父・寛(寛平)は町役人をしている禄高18石の下級藩士でしたが、明治期に没落し、隣の豪商・山本猪平家に屋敷地を売却することになります。その後昭和8年に山本家が土地を寄付し、上記の石碑が建てられました。
明治40年(1907年)頃に建設された旧山本猪平家住宅。山本家は飫肥杉を扱う材木商で財を成しました。
通路や土間などに陶器製のタイルが敷かれていてモダンです。
庭園の向こうに小村寿太郎生誕地の石碑が見えています。
小村寿太郎誕生の際、産湯に使用したとされる井戸跡。
尚、小村寿太郎の生家は横馬場通り(武家屋敷通り)に移転・現存しています。中に入ることは出来ず、外観を眺めるのみ。
小村寿太郎関連施設の最後は、寿太郎が学んだ旧藩校・振徳堂。八幡通りにあります。
立派な長屋門、振徳堂の入場は無料です。
振徳堂は江戸時代末期の天保2年(1831年)、飫肥藩第13代藩主・伊東祐相が従来の小規模な学問所を増改築した藩校です。
振徳堂の名称は、孟子の言葉「又従而振徳之(また従いてこれを振徳せり)」が由来となっています。
振徳堂が輩出した偉人として、小村壽太郎の胸像があります。
振徳堂で寿太郎を指導した恩師・小倉処平顕彰之碑。西南戦争で自決した小倉処平は「飫肥西郷」とも呼ばれます。
小村寿太郎と言えばポーツマス条約程度の知識しかありませんでしたが、いくつかの施設を回って、彼の生涯や人となりを知ることが出来て勉強になりました。
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