山車展示館 ねぷたとは違う弘前八幡宮祭礼の山車

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旧東奥義塾外人教師館や旧弘前市図書館がある一帯は東奥義塾の跡地で、弘前市制100周年を記念して平成2年(1990年)に整備された追手門広場となっています。すぐそばに弘前城の追手門があります。

この追手門広場に弘前市立山車展示館なる施設もありましたので、入ってみました。入場料は無料です。

見学している時は何の山車なのか全く理解していなかったのですが、後で調べると、ここに展示されているのは、弘前八幡宮祭礼で巡行していた山車でした。

弘前八幡宮は大浦郷八幡(現在の弘前市八幡)にあったものを、慶長17年(1612年)に弘前藩2代藩主・津軽信枚の時代に、弘前城の鬼門(北東)の守護として現在地に遷座されました。

弘前八幡宮の祭礼は藩主導で開催され、江戸時代には弘前最大のお祭りでしたが、明治になって藩政が終わると共に衰退し、祭礼の神輿渡御行列は明治15年(1882年)を最後に行われなくなったようです。ここ山車展示館には現存する当時の山車7基が展示されています。

それでは山車を見ていきましょう。

和徳町の山車「米山」。米俵の上に商工神として崇敬されている稲荷神の使いである狐を乗せています。

紺屋町・浜の町の山車「紅葉狩山」。平安耳朶末期の武将・平維茂が仮の途中、紅葉見学の美女に誘われ、酒を飲んでいたら酔いつぶれ目が覚めたら鬼女がいたという能の演目にもなっているストーリーから取られています。

茂森町の山車「大根山」。ふたまたの大根は聖天さま(歓喜天)を表し、夫婦和合、家内安全、善事成就の神様として、商人、芸能人や女性たちから信仰されていました。

東長町の山車「布袋山」。中国の布袋和尚と唐子たち、それに福禄寿と大黒天の姿も見えます。

土手町の山車「猩々山」。猩々(しょうじょう、猩猩とも)は海中に棲む酒好きの陽気な怪獣・妖怪で、真っ赤な装束で舞い謡い、能の演目にもなっています。祝言物と言われる縁起の良いストーリーです。猩々を山車の飾物にしたのは、土手町に酒造業者が多かったからとされています。

鍛冶町の山車「道成寺山」。こちらも能の演目になっている紀伊国の道成寺に伝わるストーリーを表現しています。

恋に狂って上半身が鬼、下半身が大蛇になった清姫。

本町の山車「黄石公張良山」。中国の軍師・張良が黄石公に兵法の極意について教えを問うシーン。

山車には町毎の「町印」も付属しています。

巨大な太鼓が2台展示してあったのですが、津軽藩三代藩主・津軽信義公の「情っ張り・じょっぱり(頑固)」な逸話から再現されたものらしい。

信義公は江戸城での年賀の際に、加賀の六尺大太鼓が恐らく日本一だろうというのを聞いて、いや津軽ではそんなの子供が鳴らす程度、城内には十尺超の太鼓があると法螺を吹いてしまいました。

それを聞いた他の大名らが、それでは使いに見に行かせるということになり、慌てて大太鼓を制作したというもの。

津軽情っ張り大太鼓、昭和45年(1970年)4月に復元された大太鼓。

津軽剛情張大太鼓、市制100周年を記念して平成元年(1989年)に制作されたもの。

どちらも「弘前ねぷたまつり」など市内で開催されるイベントに登場するようです。

弘前八幡宮祭礼と直接的には関係ないと思いますが、ねぷたも少しだけ展示されていました。

土手町の山車の名称にもなっている「猩々」の衣装と面。

猩々の能面。

ついでに隣の弘前市立観光館にも寄ってみます。

ねぷたがいくつか展示されていました。

弘前八幡宮祭礼の山車の装飾は、ねぷたの絵付けに影響を与えることもありました。紺屋町・浜の町の山車「紅葉狩山」と同じモチーフの「紅葉狩」と「平維茂」。

ねぷたは山車展示館・観光館で少し見たし、青森でも似たような施設の「ワ・ラッセ」にも行くので、翌日行こうと思っていた「弘前ねぷた村」はスキップしました。

山車展示館周辺の地図とホテル

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