聖福寺の次は、長崎四福寺巡り3か所目となる興福寺(こうふくじ)に向かいます。聖福寺の近くにある長崎文化歴史博物館にも寄りたかったのですが、今回は時間がないので諦めます。
中島川を渡る際に石橋がいくつか目に入ります。
数百メートル下流には有名な眼鏡橋があるのですが、面倒臭くなって行きませんでした。歩いてせいぜい5分くらいだったのに・・・と後悔するのはいつものパターン。
興福寺に到着しました。朱塗りの立派な山門です。最初に建てられた山門は火事で焼失し、現存の山門は1690年に建てられたもので県指定有形文化財。
興福寺は長崎四福寺と呼ばれる唐寺の中で最も早く1624年に創建されました。日本で最も古い黄檗宗の寺院でもあります。黄檗宗の開祖・隠元禅師が来日し、最初に入山したのもこちらの興福寺。
山門を含め朱塗りの建物が多いので、「赤寺」とも呼ばれています。また創建当初から江蘇省・浙江省出身の信者が多かったことから南京寺(南京は江蘇省の省都)とも。
山門の手前に小さな祠があります。
この興福寺は長崎四国八十八ヶ所霊場の第78番霊場にもなっていました。
拝観料大人300円を払って中に入ると、「長崎の昼しづかなる唐寺や 思ひいづれば白きさるすべりの花」という斎藤茂吉の歌碑。精神科医でもあった茂吉は、官立長崎医療専門学校(現在の長崎大学医学部)教授として長崎で3年3ヶ月を過ごしています。
先に進むと視界がぱっと開け、公園のようなスペースが広がります。さすが拝観料を取るだけあって人の手が入り、きれいに整備されています。
本殿の大雄宝殿。火災・暴風による焼失・破損を経て、現在の大雄宝殿は1883年(明治16年)に再建されたもの。国指定重要文化財。
内部は撮影禁止なので画像はありませんが、釈迦如来を本尊に脇侍の準提観音菩薩と地蔵王菩薩が祀られています。
前廊は黄檗宗の禅寺に特有の黄檗天井と呼ばれる蛇腹型・アーチ状の天井構造。
この氷裂式組子の丸窓も目を引きます。文字通り、氷が裂けた(割れた)ような文様ですね。
大雄宝殿の脇にある庫裡(庫裏とも)、つまりお寺の台所或いは僧侶の住居です。日本語では庫裡(くり)ですが、タイ語でもクティ(กุฏิ)と言います。仏教用語はサンスクリット語起源のものが大半なので似ていますよね。
ここには飯時を告げる為に叩いた木彫りの魚・魚板があって、興福寺の見所の一つです。この魚板は正式には「はんぽう(飯梆)」、「かいぱん(開梆)」、「ぎょほう(魚梆)」などと言い、木魚の原型だそうです。
光の加減で神々しい姿に。
同寺のウェブサイトには「中国の代表的な魚である鰍魚(けつぎょ)を象り・・・」となっていますが、現地の説明書きには鱖魚(けつぎょ)と書かれており、こちらの字が正しいと思われます。
少し離れた所に吊り下がっていた少し小さめの魚板は雌のようです。長年叩かれて腹の部分が凹んでますね。
大雄宝殿をはさんで庫裡の反対側にあるのが媽祖堂。県指定有形文化財。
これぞ赤寺という朱塗りの建物です。
媽祖堂の名前の通り、航海・漁業の女神である媽祖(天上聖母)を祀っています。内部撮影禁止なので外から撮影。手前の順風耳と千里眼(ここでは順風眼と書かれていました)だけ見えています。
他に関聖大帝(関帝聖君、関羽)、三官大帝も祀られています。媽祖を含め道教の神様なのですが、ここは仏教寺院なので菩薩と付いているのでしょうか。
旧唐人屋敷門(長崎市所有)、現在の館内町にあった唐人屋敷(中国人居留区)に残っていた門を移設したもの。国指定重要文化財。
鐘鼓楼、県指定有形文化財。
三江会所門、県指定有形文化財。三江会所とは三江(江南・浙江・江西)出身者の同郷会館・集会所です。
門には豚返しの敷居。
門の中はちょっとした庭園みたいに整備されていました。
中島聖堂遺構大学門、長崎市所有の県指定有形文化財。中島聖堂は江戸時代に開かれた儒教を教える私塾と孔子を祀る聖堂(中華圏でいう書院と文廟みたいなもの?)。明治期には廃れてしまい、残された大学門を昭和34年にこの地へ移設したもの。
移設されたものですから、興福寺の建築様式とは異なり和風な造りですね。
門をくぐると中には小さな社があります。
中には至聖先師孔子、亞聖孟子、復聖顔子(顔回)と儒教の大御所の神位が祀られていました。
興福寺は赤寺の別名通り、朱塗りの建物が多く、いかにも唐寺という印象でした。見どころ満載で興味が尽きません。
大雄宝殿(仏教)、媽祖堂(道教)、移設されたものですが中島聖堂遺構(儒教)と中国寺院・廟宇ではよくある、全ての参拝が1ヶ所で済む宗教ごちゃ混ぜの世界、現代風に言うならワンストップサービス?市電・市民会館駅から徒歩5分。